| 建築の形式の向こう側にどのような主体を想像させるのか、あるいはどのような主体を召喚するのかということを考えるようになりました。
リズム分析:社会空間の最初の基盤や土台は自然であり、物理的な空間であって、そこに複数の主体(それが人間とは限らない)が時間差をはらみながら介入していくことにより、都市空間や建造環境が変容していく。
ルフェーヴルのリズムの定義のひとつに「ポリリズム(polyrhythmia)」があります。これは周期の異なるリズムの複合的な集まりで、生き生きとした集団や身体はポリリズムを持っているとルフェーヴルは言っています。また、「ユーリズム(eurhythmia)」という用語は、良好なリズム、調和のとれた比率のリズムといった意味で、異なったいくつかのリズムの結びつきが示唆、実感される状態について述べたものです。リズム分析の魅力は、「同時に記述的であり、分析的であり、統合的であるような認識の構想」(空間の生産)であることや、先行するもの、すなわち自然的、地形的なリズムから社会的、経済的、政治的なリズムに至るまでを身体を介して可逆的に再構築し、「ユーリズム」への感度やその強度を促進させることにあると感じています。
リズム分析は、リズムを通して、無秩序とされるもののなかから新たな秩序を発見、生成していくことにも開かれていると思います。
フォルマリズムの思考は、自分の経験を超えてものをつくる「自由」を獲得するうえでたいへん重要であることはわかるのですが、それだけでは建築の楽しさ、豊かさが描けない。むしろ形式の自由を求めるばかりに痛々しい空間になってしまう場合もある。この自由や痛々しさはともにフォルマリズムが一旦建築を純粋にひとつの自立した体系として世界から切り離すからです。一方「デライトフルネス」というのはわれわれの身体がその周りにあるさまざまな環境と戯れることができている状態です。つまり、建築の外側の事象と身体の関係を建築が取り持つことになります。
形式言語の保証する自由に相対するもう一方の建築の自然言語の価値を言いあてるのに「デライトフルネス」がある、ということなのです。これは二項対立の図式をつくろうとしているのではなく、あくまでも思考のバランスを探るなかで出てきた言葉です。一方が一方を凌駕してしまわないように、言語レヴェルでまず均衡を図ろうと思ったのです。
クリストファー・アレグザンダーのいう「無名の価値」もおそらくこのことでしょう。この領域をもっと開いていくことで、「デライトフルネス」と「自由」の均衡が保たれるのではないかと考えました。このバランスなくして現代の新しい「オーセンティシティ」はないと考えているのです。
「デライトフルネス」という言葉を導入することによって、逆にフォルマリズムが持っている豊潤さが浮かび上がってもきますね。
ヨーロッパ都市では、視覚的にも空間的にもその繰り返しが明瞭な形をもって定着されていますが、東京では急激なリズムの変調が歴史的に生じたため、その風景はある種のわかりにくさを伴っています。東京に生きることは、パリに生きるよりも、時間や空間のパースペクティヴのなかに自分の生活を位置づけるのが難しいのかもしれません。
設計はそのリズムに対して、自分たちの生活や建築がどうセッションするのかを考えることではないかと思っています。
ここで大事になってくるのが現在の「ビヘイビア(ふるまい)」の見直しです。「デライトフル」な建築の自然言語の使用ができたとしても、それが単なる過去の再現であっては「今」が入る余地がなくなってしまうし、また現在から未来への投企もできなくなってしまう。そうしたときに、そもそも建築言語が何のどのようなふるまいとの対応のなかで反復され、定着されてきたのかということにさかのぼる想像力が必要になるのです。
例えば、光、風、雨といった建築の周囲にある物理的な自然要素のふるまいをコントロールするために、屋根勾配や窓庇や雨樋といった細部が生まれる。また、建物が似たものの反復のなかに置かれたときには、必ず周りとの同一性と差異が浮き上がり、そこにもふるまいと呼べるものが出てくる。これに、人のふるまいを加えた三つの次元のふるまいの取り扱いから、建築を捉え直し、それらを関係づけていく。そういう想像力が「ビヘイビオロロジー」ですね。
オリジナルという意味だけではない「オーセンティシティ」があるのではないかと考えはじめました。それが、現代が「オーセンティシティ」をつくり出せるとすればその条件は何かという問いのかたちになった。その答えのひとつとして、「量」はありうると思うんです。「量」は必ず「フラックス(流動、変化)」を持ち、それなりのふるまいを要求してきます。例えばホテルを考えてみると、どの部屋も眺め、日照、アクセシビリティなど多くの権利を主張するはずで、そのことがある扱いを要求してくる。ひとつ、二つなら個別の対応ですみますが、それが量になったときに、不変の条件になってくるわけです。
『錯乱のニューヨーク』がまさにそうでしょう。ニューヨークという変異体を語ることができる主体が実際にはどこにもいない、それこそゴーストライターにしか語れないというところが最高に面白い。つまり主体が開かれているということです。ですから、ニューヨークの形成をシナリオとして提示するということは、まさに「空間の生産」的だと言わざるをえない。コンダクターがいない状態を皆がうまく乗り切っていくということはすなわち、空間のテンプレートのようなものが人を魅了し、社会をドライヴさせ、そこにさらに人を召喚していくということなのです。それが実際の「空間の生産」に繋がっていく。
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..2013/05/29(水) 03:22 No.3426 |
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