| 風が吹けば桶屋が儲かる
森田浩彰 館内に隠されたオブジェクトの場所を示した地図や、館内で起こる出来事を示した紙。 この手のものでは、わざわざその指示通りに動くのが面倒で、実際そのとおりにしたところで何も面白いことはない。 参加型とでもいうようなこの方法は、出来事が起こることをもってしてアートと呼び、マテリアルを伴う「作品」であることはないのでシラケてしまう。だが森田さんのこれは、「ここにあるよ」といわれた瞬間に、すでに想像上まだ見ぬものが存在してしまうということそのものを扱っているように思える。繰り返される「この手法」の愚行を敢えて再現することによって。 隠されたアイテムを実際に手にとってもらうことをもって「出来事」=作品とするのではなく、隠されたアイテムは例え存在しなかったとしても、ある、ということ。
下道基行 かつて日本であった場所における鳥居の残骸と痕跡を通して、「かつて日本であったが今はそうではない」場所が唐突に浮上する。不在の在は、語り継ぐことによってのみ存在できる。
ナデガタ インタビューをもとにセリフが再構成され、演者はもともと自分の言葉であったものを演劇的に再現することになる。実人生は奇妙に演出されて、嘘と本当が曖昧な、個人的だが世代的に共通な大きな物語(大合唱)へと昇華する。カントリー/ロード/ショーは国のロードショー(映画)とも、カントリー・ロードとも取れるような組み合わせ。安野くんの曲が結構よい。 チャプターのペンキを塗っただけのディテールが秀逸。スマートにせず絶妙にダサい、という演出が過剰すぎる気がするが、それ故に嘘臭さも満載。
奥村雄樹 他の作家4人の作品の字幕のみを制作した、という作品。それぞれが主体の不在や曖昧さというようなテーマ?のものであり、ヴィデオ内で語られる英語が日本語に変換される過程で情報はさらに劣化し別の意味を帯び誤読されていく。あらゆるものが関係性の中で成立している以上必ず起こる交換や転移の途中で、もれ落ちた「どこか」や「誰か」や「何か」とは一体どこで誰で何なのか?それはあるのかないのか?平行世界を架橋する、あるけどないもの。 密室の中で同時に発声される会話を遠くで聞いているのが、経験として楽しい。
佐々瞬 なんだかよく分からない巨大な構造物について、作家が様々な立場の人間を演じ分けた上で、それについて様々な意見を言う。人の数だけ見解があり、ものはたったひとつなのに、たったひとつのものの見方は存在しない。それらの見解の間にはやはりいちいち飛躍があり、関係することもしないこともある。そういうものの総体としてしか僕たちは世界を認識できないが、同時に、その全体を完全に認識することもまた不可能である。全体はきっとあるように思えるにもかかわらず、個人が、その主体性の範囲内において認識仕切ることは不可能である、ということを通して、個人の認識の広がり、その境界の曖昧さが浮上する。 震災で亡くなった友人への叶わなかった謝罪のメモ。今は亡き友人について語る(その語り方も内容も時間とともに変化する)ことによってしか、友人を 出現させることができない。届かないものを手元におくことの可能性と不可能性。
田村友一郎 今回一番おもしろかった作品。 美術館に収蔵されている作品のタイトルを適当に使ってありもしない深川にまつわるエピソードをつくり、その作品を展示する。本来出会わなかった作品が架空の物語に絡めとられて新しい関係性を築く。構造はシンプルで、その手の抜き方、労力の掛かってなさ、がとても好き。 地下では、浅沼稲次郎が住んでいた同潤会アパートが再現されていて(看士に聞かないと何もアナウンスされない)、紙を咥えてドアを開ける(お祓い的な儀式であるが、これも聞いて初めて知る)。中では2億年前からの深川の歴史がたどたどしい日本語で時系列を無視して語られる。それは展示室のエピソードとも関連する。たまたま、空調の振動によるカタカタと音がする部屋のセットがとてもよい。エイジングも巧妙で、妙な落ち着きと、広い地下駐車場の場違いさのアンビバレント。シナトラの曲が大音量で流れ、空間の広がりを感じさせる。知らなかった深川の歴史と、おそらく見ることはなかったであろう収蔵品を、嘘と本当を織り交ぜた物語によって、狐につままれたような経験をする。
memo: 不在ということを認識させる/するということとか、観覧者が作品の構造の中を行き来する、ということ自体は別に新しくもない。が、それを某かの方法で経験させる方法の精度がすごく上がっていて、多様化していて、繊細になっているという印象。作品が「状況」や「出来事」であるなら、それをどう経験させるか、ということがとても重要になる。(多くの場合)作者が手を下さないオブジェクトの相互の関係性によって浮かび上がる構造が何であるかをどう認識するか。だがこのことは、文脈性を無視しては成立しない。意味と文脈が複雑に織り込まれた織物として提示されざるを得ないという一面があるとき、デザイナーの側としては、そのありかたにはいささか食傷気味?重い?ところは、ある。意味は織られ方(恣意性)が重要になるが、建築では機能性や技術や構法といた非・恣意性を味方にできることが大きい。
これらの美術館に収まらない形態を持つ作品が、どのように記録/アーカイブされるのか、という点に関心がある。と思ったらキュレーターの西川さんがそのことについてカタログに書かれていた。
全体的にしゃべり・語り・テキストが多い。配布されるもののボリュームも膨大。結局言葉の中に成立しているのか?というくらい。言葉が伴うことに否定的ではないが、マテリアルとスケールを伴った新しいオブジェクト比率を上げたものを見てみたい。 |
..2013/02/02(土) 05:17 No.3299 |
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