| http://d.hatena.ne.jp/superficial-ch/20150103
・現状の青森県立美術館を見た上での評価をして頂いて、深謝。いくつかの美術館建築と大宮前を通して昨今の傾向に疑義を唱えるというアクロバット。その上で、以下メモ
・「仮に全ての部屋の仕上げや形状を違うもので作ってしまうと、大きな作品も小さな作品もヒエラルキーがなく等価に並べるというこの建築の重要な部分と齟齬をおこす。」 →そうかな?それぞれが全く別々の仕様になっているものを並べることによっても、ヒエラルキーがなく等価な状態だと言えるような気がする。
・「青森県美に対するよくある批判に、美術作品より前に建築が美術作品のように主張しすぎている、というものがある。確かに見ようによっては、青森県美はその隅々まで過剰にデザインされているし、それを隠そうともしていない。ただ、そういった批判が出るのは無意識のうちに、建築はあくまでナカミを入れる器であり、建築は無色の透明な容器であるべきだという先入観があるからではないか。」 →これは重要な指摘だと思う。作品は必ず展示室に遅れてくるのであり、それを転倒させたものが奈義や十和田の形式だと言えるが、これは展示に対して自由を取るか平等を取るかの違い。
・「派手で恣意的なデザインは嫌悪の対象になり、ユーザーの為というの名の下、設計者の恣意的なデザインを排除する試みが様々な形で模索されるようになっていった。 」 →ここで言う恣意的という語の意味を、作家主義とか権威主義とか表現主義とかと解釈していいか思う。これらは業界的なコミュニティに閉じているという反省をある意味で促した。そういう状況にシラけた建築家が、漂白された、アノニマスな、フラットで抽象的なデザインを好むようになったというのは時代の好みの問題だと思う。しかし一方で、「過剰な意匠を排除した」ということには注意が必要で、「何を排除したか」ということが自明(たとえば、巾木をなくす、素材種類を減らす、など)である時点で、抽象的とは言えないという気がずっとしている。
・「無色の容器や完全に透明な器が存在しないのと同じように、完全に恣意的なデザインを排除した建築も作る事はできない。せいぜいある瞬間の人々の欲望の平均値を取ったものにしかならない。しかもこの二つの方向は今ある世界を変える事はなく再強化する。やはりどこかで間違っている。」 →同意。上記の理由で、排除の元となる世界を肯定し続けることになる。
・言われる通り内部空間の意匠としては一見青森→大宮前の流れ、もしくはその亜流的な感じがするが、ここには実は乖離があって、大宮前→三次(傑作)の方がしっくりくる。として見ると、大宮前の内部は質としては理解できる。
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..2015/01/04(日) 23:57 No.3639 |
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