| 将棋の対局の中に、無数の手の可能性の海が広がっていて、それを空間の濃淡、あるいはなにか複雑な関係性の総体として認知できる人間がごくたまにいる。羽生名人はおそらくそういう人で、彼にとっては勝敗が将棋を指す動機になっていない。 コンピュータが解明する、あるいは解きほぐすこの空間の全貌性は、人工知能の精度が上がれば上がるほどその解像度を増していき、誰にでも認知できるような形で提示されるのかも知れない。 コンピュータが序盤の手を解明しつつあるということは、まず直感でしかないような最初の手の根拠やその先の展開が見えてしまうということになる。
同じように、設計というプロセスにも、様々な手があり、その可能性の全てはほとんど無限に有ると言ってよいのだが、それでもなおその全体を想像することはできる。あり得べき全体。そしてその一端でも知ることができるのではないか、という創造に関わる可能性を手に入れることは、多くの理論として世に出されてきたりもしてきたが、まだまだ全体には遠く及んでいない。
一方でこれが解明されてしまうと、この設計の空間は誰にでも共有可能になる。しかし共有可能になってしまうと、創造者としては面白くなくなる。それを割けるためには「桂馬のルール」を都度作り出せばよいのだが、こと建築に限っては、現実の方が常に創造者に先んじていて、解明される前にルールの変更がなされてしまっている。
という話。
ジェネラティブデザインとかアルゴリズミックデザインの話ととても近いようで、じつは全く正反対の話、でもある。かも。 |
..2014/09/26(金) 04:23 No.3623 |
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